正しく生きることは難しい。
大人になった僕らにとって、「お天道様が見ているから」という理由だけでは、ちょっとの悪さを自制するだけの力はなくなってしまった。
「赤信号を渡ってはいけない」
「財布を拾ったら交番に届けなくてはいけない」
「生ゴミをそのまま捨ててはいけない」
「決められたルールは守らなければいけない」
「人を叩いてはいけない」
子どもに「善と悪を判断するモノサシ」を身につけさせるのは、それはそれは大変だ。人として "そうあるべき" とは思うけれども、「なぜ、そうしなければならないのか」という理由がなければ、子どもを納得させることはできない。
しかし大人になると悪知恵が働いてしまう。
「人が見てなければいいや」
「バレなければ問題ない」
そんな "悪魔の囁き" に耳を傾けてしまいたくなる場面も少なくない。いや、日々そんな小さな決断の繰り返しだ。
「急いでいる」んだから、「赤信号を渡るのは仕方ない」と、ありもしない根拠と理由をでっちあげてしまいたくなる。
そんな「自分に嘘をついて、正しくない行いをしてしまいそうなとき」に、ぜひこの話を思い出して欲しい。
これは、とある坊さんから教えてもらった、嘘みたいな嘘の話だ。
運を貯めて、勝ちたいところで使いなさい
「運」という物がある。
目に見えないし、存在を証明することもできない。しかし誰もがその存在を疑わない「驚異の大宇宙パワー」である。
この「運」という得体のしれないものは、実は "貯める" ことができる。
世の中は、足して引いて、最終的に0になるようになっている。生まれたときに持っているものに差があるにせよ、札はおんなじ数だけ配られる。
善いことをしたら、運は貯まる。
悪いことをしたら、すぐに運は減る。
運を味方にすれば、幸せは何十倍にも膨れ上がる。
問題は「どこで勝ちたいか」。つまり「どこで運を使うか」ということだ。
貯めた運をスマホのガチャに使って良いのだろうか。そこで使ってしまった分だけ、運は減ってしまう。
だから「運」というのは、自分が勝ちたいと思うその瞬間まで使ってはいけない。貯め続けて、貯め続けて、ここぞというときに使うのが、上手な使い方なのだ。
「運」を味方につけて、「運」をコントロールしなさい。それが坊さんの教えだった。
僕は、僕のために、ゴミを拾うだけ
僕は、この坊さんの話をひたむきに信じている。
善いことをすれば「運」が貯まる。そんなに美味しい話があるなら、僕は「お天道様」が見ていなかろうとも、落ちているゴミを積極的に拾いたい。
これが僕の、正しさを実行する根拠だ。
非常に利己的で、自分の欲に正直な理由だと思う。人に優しくするのは、「その人が困っているから」ではなく、あくまで「自分の運を貯めたい」からという、身勝手なものだ。
「赤信号は渡らない」
「財布を拾ったら交番に届ける」
「生ゴミをそのまま捨てない」
「決められたルールは守る」
「人を傷つけることはしない」
僕はここぞというときに勝ちたいから、今はまだ「運」を貯め続けたい。慎ましく、ひたむきに、雨ニモマケズ、生きていくのだ。