新型コロナウイルスが騒動となっておおよそ一年。今日までニュースや新聞で取り上げられなかった日は一日たりともなかった。
ニュースをつければ今日の感染者数。バラエティーをつければこれみよがしに透明なパーテーション。専門家は政府の悪口を言って、街に出ればマスクをした見知らぬ他人が顔を隠して歩いてる。
異常が日常になりつつある世界で、その違和感を感じ続けている人がいる。
うちの娘だ。
新型コロナの情報を断つと決めた理由
幼稚園への登園ではマスクと体温測定が義務づけられ、園の玄関にはアルコール消毒が置かれ、大好きだったお弁当はなくなり、園にいられる時間も減らされた。
友だちと公園で遊ぶにもマスク。習い事のバレエや体操をするのにもマスク。買い物に行くだけなのにマスク。
友だちと行くはずだった一泊二日の遠足も中止。園生活の集大成であるお遊戯会は親の観覧に限定され、じぃばぁには見てもらえなかった。
プレゼント交換会をするはずだったクリスマスパーティー。幼稚園の友だちたちと集まってのクリスマスは、もう二度とやってこない。
そして彼女は、体調を崩した。
ひとつひとつは "気のせい" とも取れるような違和感だった。親である私は、真剣に向き合ってあげられなかったと思う。大丈夫、少し休めばよくなるよ、と。
「頭が痛いの」
「なんだか今日、疲れちゃった」
「やる気がおきないの。今日のバレエ、欠席してもいい?」
「遠くのものを見ると、ぼやけるんだよね」
「なんかこのヨーグルト、いつもより苦い」
「ささくれ、いじっちゃった。ごめんなさい」
そんな小さな違和感が少しずつ積み重なって、ついに先日。自分たちに心配をかけまいとして、あるいは怒られまいとして、気持ちが悪いことを隠して食べた朝食を、彼女はすべて吐き戻してしまった。
こんなことは初めてだった。
何が原因かはわからない。今でも、ハッキリとした原因は不明のままだ。
その後の彼女はいたって普通だったし、熱やだるさもない。おやつと夕食をモリモリ食べるだけの元気もあって、一旦は安心できた。
しかし心配は尽きない。そこで、夫婦でお世話になっている治療院の先生に診てもらうことにした。
この治療院はすこし特別で、いわゆる外科的な診察ではなく、内面に目を向けてくれる。人の内面を診て、そこから病気や不良の原因を探る。東洋医学的な面をもつ治療院だ。
そんな治療院で娘を診てもらって言われたのが「コロナのストレス」であった。
言われてすぐに納得した。今まで彼女が我慢してきた物事を振り返ってみれば、彼女に押し寄せてきた負荷の大きさは、容易に想像できたからだ。
やりたいことができない日々。楽しみにしていたものをすべて奪われてきた。やり場のない怒りとイライラは、想像以上に大きいのだろう。
たぶん彼女自身も、自分がストレスを感じているとは気がついていない。どこかでは「もう慣れたもんだ」と思っているかもしれない。
しかし心の奥深くではきっと、いまでも納得できていないのだ。なんでこんなに我慢ばっかりしなくちゃいけないの、なんて、答えの見えない理不尽な毎日を必死で耐えている。
その日から、我が家では新型コロナウイルスの話題を断った。
テレビは天気予報以外のニュースは見ず、バラエティを中心に変えた。夫婦の会話でも、娘が寝静まるまでは話題に出さない。
「デジタルデトックス」なんて言葉があるが、いま必要なのは「コロナデトックス」だろう。
こんなご時世だからこそ、ハリボテでも良いから明るくハッピーに包まれていたい。せめて彼女の身の回りにだけは……。そう思うのだ。
せめて子どもたちだけは…
おそらく、我が子だけではない。周囲の環境を変化を敏感に察知しているのは、おそらく大人よりも子どもたちだ。
もしあなたが、子を持つ親なのだとしたら、すこしコロナの話から遠ざけてあげてほしい。うんざりするほどの現実は、せめて家の中では忘れさせてあげてほしい。
コロナ前の生活は、おそらくもう二度と戻っては来ない。変わらなければならないのは、状況ではなく、私達のほうであると、薄々だれもが勘づいている。
しかし彼女たちはまだ信じている。楽しかったあの頃に戻るのを、今か今かと待ち続けている。そんな子どもたちが、せめて楽しく日々を暮らせるように。