この記事を読んで自分もまったく同感だなと思い至ったので、僕のいまの気持ちもしたためておこうと思います。
よいカメラ
小学校に入る前に受ける娘の健康診断のため、昼から休みを取って娘が通うであろう小学校へ向かう。 かつて自分が通ったその小学校。ほんのうっすらとだけある記憶。 そこに娘がもうすぐ通うそのシチュエーションだけでも十分にエモい、エモ言われぬものがある。
ふと「良いデジカメが欲しい」と思うことがあります。この間もそうでした。キレイな写真が撮れるカメラが欲しいと。
でも、結局やめました。いろいろ思い、考え、悩んでいたところに、ふと自分が手にしている iPhone XS MAX を見たときに「自分はすでに良いカメラを持っていた」と気づいたので。
良いカメラの条件
あなたにとって「良いカメラの条件」ってなんですか?
ボケがキレイ。
画質が良い。
発色がよく再現される。
ブレに強い。 ...etc
個々人の考え方によって変わりますし、被写体が違えば求められる機能も変わるので、一概に「これが最強!」とは言えないですよね。
では僕が考える「良いカメラの条件」とは。
かれやこれやとデジカメを吟味していたときに、最終的に至った結論は「生活に溶け込めるカメラ/撮りたいときに撮れるカメラ」でした。
おっきな一眼レフは必要ない。5万円もするコンデジもいらない。そもそもカメラの形をしている必要がなくて。
いつでも手に持っていて、どこにでも連れていけて、生活の一場面を自然に残せるカメラ。
そう思い至ったのは、妻と娘の存在と、おそらく過去のイヤな体験があったからだろうと思います。
写真に撮れられるのが嫌いだった
子供の頃、僕は写真に撮られるのが嫌いでした。正確には「親父が撮る写真が嫌い」で、カメラを構えられる度に出てくるうんざりした表情を隠しきれませんでした。
親父はカメラマニア。カメラが趣味で、いつもファインダーを通して世界を覗いていました。旅行ともなれば良い機会だといわんばかりに、必死になってシャッターを切る。そんな人でした。
そこで被写体にされるのが僕です。良い風景があれば、その前に自分を立たせて写真を撮る。細かく立ち位置まで指示をして。
きっと親父は、僕を撮りたいんじゃなかったんだと思います。思い出を切り取りたいのではなく、作品を作りたかったんです。
親父がどういう思いでファインダーを覗いていたのかは知りません。しかし僕には、カメラのレンズが非常に冷たい目に見えていましたし、自分の後ろにある風景が主役であることを思い知らされたのです。
旅行の楽しいひと時を一々中断させられて、あまつさえ僕の行動まで静止して写真を撮ろうとする親父の行動が、本当に本当にイヤだったんです。
なので僕が親父の撮った写真を見返すことはありませんでした。その写真の中から、旅行の楽しさや空気感、雰囲気を感じることができなかったから。
「作品」ではなく「思い出」を撮りたい
自分が親になって、娘に対して必死にシャッターを切っている自分がいます。でも、親父とは違うって、作品が作りたいわけじゃありません
「今」という限りある時間を、できる限り自然な状態で残したい。これが僕の「カメラを持つ理由」だったんです。
僕がカメラを構えれば、娘は良い気になってポーズを取ってくれます。4歳ですからね。
でも僕は、君がそうやって作ってくれる笑顔も好きだけど、それよりも君の自然な表情を残したいと思うのだ。
その場の空気感、雰囲気も含めて、写真の中に収めたい。
怒った顔も、泣いた顔も、むすっと膨れている顔も、おどけて笑わせようとする顔も、全部全部が君の一部だから、ありのままの自然な「生活の一部」を切り取りたい。
そう思うと「カメラ」という形は、どうにも不相応。生活には一切関係のない「異物」であって、あるべき姿ではないんだと思います。
今まで撮りためた1万を超える写真を見返すたび「あぁ、iPhone を持っていてよかった」と実感するのです。
執筆後記
友人がカメラを買ったと自慢していると、そのたびに物欲が刺激されて、自分も欲しいと思ってしまうのです。
自分でもキレイな写真を撮りたい、みんなに自慢できる作品を作ってみたいという衝動に襲われます。
でも冷静に考えれば、僕にはそんなスキルも情熱もない。きっと使いこなせずに終わってしまうんです。
僕がカメラで作りたいもの。それは「思い出」であって「作品」ではないのですから。