私は、親父の撮る写真がキラいだった。
私の親父は大のカメラ好き、写真好きだった。デジカメが普及するより前から、アンティーク系のカメラがタンスいっぱいに陳列されていたものだ。
そんな親父は、外に出るたびにカメラを持ち出す。もちろん、息子である私と遊びに出かけた時もそうだった。
写真を撮ることより、一緒にいる時間を大切にしてもらいたかった
遊びに来ていたはずなのに、いつの間にか親父の撮影会が始まる。
先へと進みたい私の気持ちをよそに、「ちょっと待って」といって足を止めさせられる。そして、そこら辺に咲いている花に食いついている親父の背中をただただ眺めて待つ。
次の被写体は私だ。立ち位置を指示され、作り笑いとポーズを強要される。それが一枚ではなく、違う角度から何度も撮られるのだからウンザリだ。
遊びたい盛りであったのに、何をするにしても一々中断される。
だから私は、親父と一緒に外に行くのがキラいだった。
作品としては100点。家族写真としては0点。
何より、親父の写真は見ていて楽しくなかった。
絵としてはキレイなのだ。それは間違いない。さすがカメラフリークスというだけあって、一枚一枚の芸術的なセンスは、素人ながらによかったと思える作品ばかりだった。
しかし、それはあくまで作品として。家族写真としては0点の出来栄えだった。
写真に写された私を取り巻く空間すべてが、人為的に作られたもの。いかにも「嘘くさい」感じに思えるのだ。
光の差し込む角度は計算され、それに合わせて立ち位置を移動させられる。ゴミ箱や標識など、絵として相応しくないものはファインダーから取り除かれる。
作られたシーン。偽物の表情。今見返しても、その時の思い出が蘇ったりすることはなかった。
ありのままの一瞬
もっと自然な空気と時間を切り取って欲しかった。それが私の本音だ。
絵としての綺麗さなんてものは正直どうでもよく、ピントなんか多少ズレていようが気になどしない。
そんなことより、家族ひとりひとりが自然と笑っていて、その瞬間の暖かな空気感をも一緒に切り取ったような。そんな「ありのままの一瞬」を残しておいてもらいたかった。
大人になった今だからこそ、私はそう思うのだ。
だから私はiPhoneを取り出す
そんな私も父親になり、今は娘と妻の写真を撮り続けている。
娘には、私と同じような気持ちにさせたくない。そう切に思うからこそ、私は一眼レフを買うのを止め、iPhoneのカメラでの撮影を続けている。
私が切り取りたいのは、その瞬間にしか得られない自然な家族の暖かさなのだ。
そのために必要なのは、撮影する技術や高機能な道具じゃない。一瞬を逃さないための手軽さとチャンスを逃さないためのシャッター数だ。
一眼レフは、私には合わなかった。
大きくて重い一眼レフは、外に持ち出す機会が減り、家の中でさえ手元にたぐり寄せるのが面倒になる。キレイに撮ろうと手元を忙しく動かしているうちに、シャッターチャンス自体を逃してしまう。
それなら、iPhoneなどのケータイカメラか、もう高級コンデジといわれる類のカメラを肌身離さず持ち歩いたほうが、よっぽど "良い写真" は撮れる。
そう気がついてから、私の一眼レフへの購入意欲は無くなっていった。
空間そのものを切り取れる「THETA S」に期待している
iPhoneや高級コンデジの他に、世の父親にこそオススメしたいカメラがある。
その場の空気空間・時間を丸っと切り取る手段として私が購入したのが、全天球カメラ「THETA S(シータ S)」だ。
これを使えば、ボタン一つで、自分を取り巻く環境を捕まえられる。上下左右前後すべてを対象とした一枚の写真を撮ることができる変わり種カメラだ。
Family Picnic in Japan - Spherical Image - RICOH THETA
私が子どもの時に撮ってもらいたかった写真は、こういうものだった。
一眼レフのキレイな写真が悪いわけではない。もちろん、それを使っても家族の自然な表情が撮れるのであれば、それに越したことはないだろう。
しかし、素人が背伸びをして一眼レフに手を出しても、ろくな結果にならない。宝の持ち腐れ。オーバースペック。手に余るとはこのことだ。
なにより、「なるべくならキレイな形で家族の写真を残そう」としていたのが、いつの間にか目的が逆転し、「いかにキレイな写真を撮るか」に変わってしまいがち。
そんなことになるぐらいなら、私は一眼レフなんか捨てる。
iPhoneを片手に、失敗を恐れずシャッターを切り続けることの方が重要だと、私は思うのだ。