娘が2歳とか、まぁそれぐらいの頃だ。家族三人で買い物に行き、エスカレーターに乗っていたときのこと。
(乗っている段に両足を乗せず、右足だけをひとつ上の段に置いて、ちょっとしたり顔)
あぶないから、ちゃんと両足揃えて乗りなさい!
おとーのまねっこ(怒)
(ぼくを睨む)
す……すみません
といったことは、日常のなかでママあるわけです。おそらく他のご家庭でもあるあるな話だと思うのだけど。
自分の立ち居振る舞いについてはそこそこ自信があるつもりで、お天道様がぼくのことを見ていても恥ずかしくないぐらいには生きているつもり。
それでも自分の娘というのは、お天道様よりも厳しいものだ。
この前など、朝の支度を急いでいたものだから歯ブラシを口に入れたまま洗面所に向かい、娘にこっぴどく怒られた。
娘「歯ブラシいれたまま歩いたら危ないんだよ!」
ぼくが娘に注意した言葉を、ちゃんと覚えていてくれたことへの喜びもわずかにあったが、それ以上に自分の至らなさを恥ずかしく思ったできごとだ。
我が子を見て襟を正す
さて、こういった話は、感じ方によってはまぁ恥ずかしい話なのかもしれない。子どもに怒られるなど、大人としてどうなんだと、そう思う人もいるかもしれない。
でもぼくはこういうとき、娘に対してキチンと謝ることが大切だと思っている。
「自分が悪かった」「きみが正しくて、ぼくが間違っていた」と。無駄な意地やプライドを盾にして言い負かすのではなく、自分の間違いを娘に対して示すことが重要だ。
子どもは純粋だ。純粋無垢であるから、かんたんに何色にでも染まってしまう。ぼくのちょっとした行動や発言で、彼女は黒にでも白にでもなる。
親とか子とか、
男とか女とか、
年上だとか下だとか、
社会とかルールとか。
そんなものを一切捨てて、最後に残った「純粋な正しさ」みたいなもの。娘にはこれを持ってほしい。だからぼくら大人が、率先して示すべきなのだ。
ぼくがエスカレーターを歩かない理由
自分の行いが正しいか、それとも間違っているのか。ぼくら大人でも、たまに迷ってしまう。
エスカレーターの右側は、はたして空けておくべきだろうか。それとも2列になって待つべきだろうか。
ぼくは——どこかに少し申し訳ない気持ちはあるが——右の列では歩かず、上に到着するまではじっと待機するようにしている。
後ろから急いでいる雰囲気の人がいて、どうにか避けられそうなら、左に移動し、右側を通してあげようとは思う。しかし基本的には、後ろから歩いてきている人がいようとも、ぼくは動かない。
「左が待機、右が歩く人」という暗黙のルールはあるのは知っている。関西では逆なのも知っている。
しかしぼくはこれを、娘に説明できない。だからぼくは、この暗黙のルールを守るわけにはいかないのだ。
娘に見せても恥ずかしくない姿勢を
なぜ娘に説明できないか。
それはぼくが、エスカレーターを歩くことは危ないと知っているし、「してはいけない」というのが駅でのルールであり、娘には身の安全を最優先にしてもらいたいと願うからだ。
娘には、右の列を歩いてほしくない。キチンとぼくと手をつないで、上に到着するまでは待っていてほしいのだ。
「そりゃあ子供は危ないかもしれない。けれど大人は大丈夫だ」そんなのは大人の勝手な言い訳である。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言っているのと同じぐらい、むちゃくちゃな論拠だ。
大人が良くて、子供はダメ。そんなことは、ほんの一部の場合を除いて、ほとんどありえない。身体的に未成熟であることが理由で禁止されているものはあれど、物事の正しさを測るのに、年齢はほとんど関係ない。
だからぼくは、エスカレーターの右列は歩かない。もし急いでいるなら、ぜひ階段を駆け上がってほしいと願うばかりだ。
子供は自分を映す鏡
子供ができてから、自分の身の振る舞い方を考えさせられる場面が多くなった。いままで「なんとなく」やっていたことに、「理由」が必要になったのだ。
あなたも、もし自分の行いの正しさに不安を感じたら、赤信号を待っている子供を思い出して欲しい。
あなたは、信号が青になるのを健気に待っている子供を横目に見ながら、車の走らない赤信号を渡れるだろうか。