ぼくは無宗教だけど、仏教やキリスト教の教えは、たまに聞くと、心のなかにある鐘みたいなものをゴ〜ンと打ち付けてくる。
宗教のなんたるかをすべて知らなくても、かいつまんで話を聞くだけで、じぶんの心が洗われたような気持ちになるもんだ。
つい先日、厄払いのために訪れた川崎大師で、とても心に響いた説教をいただいた。
仏教と聞けば「無欲が大事」と思われるだろうが、実はそんなことはないという。
欲というのは、人にとって大切な気持ち。なにかを欲するからこそ、そのためにがんばれる。いわば欲は心の潤滑油なんだそうだ。
欲にもいろいろあるけど、仏教において良くないとする欲はなにか。それは「貪欲」であると。つまり「過ぎる」のがよくないのだ。
あれも欲しい。もっと欲しい。そういう気持ちが人の迷いの根っこになるため、しつこく求めすぎないことが大切なんだそうだ。
そういえばぼくにも、過ぎた欲がもとで痛い目をみた覚えがある。
なんでも「過ぎる」のは良くない
このあいだ、あれはとてもお腹が空いていた平日の14時頃だ。長かった打ち合わせが終わって、ようやくお昼ごはんにありつけるとあって、せっかくだから好物にありつこうと思いたった。
とくべつに高級なお店じゃない。ふつうの中華料理屋なんだけど、そこの麻婆豆腐がぼくは好きだった。
いつもは単品を食べれば満足できるところを、お腹が空いていたぼくはランチのセットを頼んだ。それでもなんだか足りないような気がして、気がつけば「大盛りで」と言葉が出てしまっていた。
運ばれてきた料理。テーブルに敷き詰められた料理を見渡しても、なお、なんだか物足りないようなさびしい気持ちを感じる。腹が減っているときとは、たいていそういうものだ。
熱々の麻婆豆腐をレンゲにのせ、湯気が引くのを待たずに、ほおばる。おいしい。なんておいしいんだ。いつもよりおいしく感じてしまう!
ひとくち。さらにひとくち。はぁ〜なんとぼくは幸せなんだろうか。口に入れるたびに、喉を通過するたびに、ぼくのなかの幸福度メーターがぐんぐんと伸びていくのが感じとれた。
こんな幸せな瞬間がいつまでもつづけばいいのに。
しかし、10回ぐらい口に運んだあたりから、幸福度メーターの伸び方がゆるやかになった。でも美味しい。空いているお腹は徐々に満たされているが、満腹まではほど遠い。早くこのお腹を満たしてしまいたいと望んでいた。
レンゲをさらに口へ運んでいく。ふぅ。。。結構お腹がいっぱいになってきた。しかし料理は残っているのだから、手を止めることなく食べつづける。おいしかったはずの料理は、徐々にお腹を満たすための作業になりつつあった。
そして、あとほんの少しで完食というところでは、もう気分はフードファイターである。
お腹もいっぱいで、腹回りが苦しい。残すわけにはいかないものだから、必死で食べつづける。ベルトの穴もひとつ広げて、考えられる対策はぜんぶやった。
最初はあれだけ美味しいと感じていた料理も、終わってみれば、自然とこぼれてしまう「うぅ。。。たべすぎた」の一言。
あれほど幸せに満たされていたのに、15分後にはどこかへ飛んでいってしまった。心に残っているのは幸福感などではなく、頼みすぎたことへの後悔だけでいっぱいであった。
コツは謙虚に60%〜80%狙い
形は違っていても、ほとんどの人が、いちどはこういう経験をするのではないかと予想する。「過ぎた欲」が身を滅ぼした例である。
「過ぎたるは及ばざるが如し」とはよく言ったものだ。「及ばない」のである。
「ここまでが限界!ここまでがピーク」って境界線を見誤ってしまうと、それまで積み重ねてきた「幸福度」みたいなものが、維持されればまだいいんだけど、途端に減ってしまうのだ。
だから自分の欲と向き合って「まーこれぐらいあれば充分かな」って思える量を見極めることが大事である。
さて、これがとてもむずかしい。何百回、何千回と繰り返してきた「食事」でさえ、自分の欲を見誤って「食べ過ぎる」ことがあるのだ。
これを「あれも欲しい、これも欲しい」と突然に思い立った欲と対面したとき、ぼくはちゃんと正常な気持ちで判断できるだろうか。とても自信がないのだ。
だからひとつコツとして、その「幸福度のピーク」を超えないような采配をするために、ぼくが気をつけていることは、「ちょっと少なめに見積る」だ。
「幸福度」の最高点を目指してコントロールすれば、失敗する可能性も高い。失敗したときに失うものも多い。
だから、ピークのちょっと手前を狙う。「これぐらいあったら満足満足♪」ではなく、「まーこれぐらいあれば充分かな」を狙うのだ。
ふむ。言い換えれば、これが「謙虚」とか「質素」とか、そういう求めすぎない心につながるのかもしれない。
いずれにしても、ぼくはもう麻婆豆腐をランチセットでは頼まないし、大盛りにもしないのである。