「車がぜんぜん通ってないのに、なんで赤信号を渡っちゃだめなの?」
こういった質問がいつか娘から投げかけられるだろうと身構えてはいるのだが、いまだにベストな答えを出せない自分がいる。
自分のための答えなら明確なものを持っているのだが、それを4歳の娘に伝えても、きっと納得はしてもらえないだろうと思う。だから子どもが納得して、心で理解できるような答えが必要なのだ。
一番いけないのは「みんなそうしているから」「それが当然だから」といった社会的価値観や、一般的な常識、道徳感を無理矢理に押し付けることだ。
あるいは「赤信号は渡ってはいけないの」「親の言うことは聞きなさい」といった理由や根拠をちゃんと伝えないやり方だ。
子どもを軽んじてはいけない。子どもはぼくら大人が思っているよりも、ずっと多くのことを考えているし、そして理解している。
そして納得をなによりも大事にしているんだ。あのジャイロ・ツェペリのように、納得をなによりも優先している。
逆にいえば、彼ら彼女らは、納得さえすればきちんと守る。自分のなかに「正しい」と思える正義を見つければ、本当に彼女らは純粋だから、それにしたがって行動できるんだ。
だから彼女らが納得できるような理由が必要なんだ。その理由を、いまもぼくは探しつづけている。
最近、大泉洋さんのエッセイ本を読んでいる。言葉ひとつひとつの選び方が、ストレートなんだけれども、なにか表現にユーモアが溢れていて、ページをめくる毎に頬の筋肉がゆるんでしまう。とても読みやすく面白いエッセイなので、気になればぜひ読んでみてもらいたい。
そこで紹介されていたエピソードは、ぼくの悩みを解決するひとつのヒントになりそうなものだった。
27歳のとき、大泉洋さんは髪を短くし、そして茶色に染めたけっか、父親から髪型を注意されてたのだという。最初は笑ってやり過ごしていたのだが、だんだん腹が立ってきて「ウルセーな!何か迷惑かけたか!」と言い放ったのだそうだ。
なぜ父は私の髪型が嫌なのか。それは常識というものがそうさせているのだ。「茶髪のにーちゃん」イコール「ろくでもない奴」という彼の思う常識に照らして、父は私に怒ったのだ。
しかし、茶髪は悪いことじゃない。私の反論のように迷惑もかけない。でももし私の子供がこんな頭をしたら、ただ放っとくのもいけないと思うのだ。
なぜなら、茶髪のせいで子供が損するかもしれないからだ。
つまりその場合「この社会は常識で全てを判断する大人という人々が動いている。おまえが何かしようとした時、損をするかもしれない。それを踏まえてするならしなさい」と言ってやらなきゃいけないのだ。
そう考えると、私の子供を注意する時、常識に照らし合わせてそれに合わないからダメ、なんて言えないのだ。
だいたい常識というのはその時代の人々が作っていくもので、何の説得力もないものだから。
(中略)
そして大人と子供の常識はどうしたって違うもので、大人の常識を無理強いすれば子供はどうしたって反発するのだ。
じゃー大人の切り札常識が通じないなら、何を基準に良い、悪いを判断するのか。
つまりはハートだ。そいつがどんな気持ちで何を言い、何をしたかが全てなのだ。どんなに見た目が悪くて、どんなに乱暴な言葉を使う奴でも、気持ちが真っ直ぐならそれでいいはずだ。
私の子供はハートが正しい人間になればそれでいいのだ。
こんな話をしていて、ぼくのなかでも共感する部分がいくつもあった。
子供には子供の理屈があり、親の理屈をゴリ押すことはやっぱりできない。子供が自分の理屈として納得できなければ、正しい行動を起こすことはできないのだ。
大泉洋さん的な言い方をすれば「ハート」さえしっかり持つことこそが大事で、親の務めは、子供に熱いハートを宿すことそのものなのだ。
そのハートを育てるのは、きっと一長一短では難しい。きっと親であるぼくたちの、普段からの何気ない行動や言葉、姿勢、立ち居振る舞い、背中をみて育っていくものなんだろう。
「損をすることになっても良いのなら、どうぞ」と、つっけんどんに突き放すこともできるだろうが、それでは「逮捕される覚悟があるなら遠慮なく人から盗め」と言い換えるのと、大きな差はないだろう。
それはぼくが望んだ姿ではじゃあない。ぼくは「どんなに貧しい状況だろうと、人様のものを盗むようなことをしてないけない」と、黄金の精神を、熱いハートを持ってもらいたい。そういう人になってもらいたいんだ。
単純な理屈や理由を並び立てても、きっと子供のハートは黄金には輝かない、響いていかないんだろう。
結局は、子供たちが自らの力で、自分のなかの答えを出すしかないのだろうなぁ。外からではなく、内側から湧き出してくるものなんだ、きっと。
執筆後記
ちなみにぼくが正しいことを実行できる理屈や根拠は「運を貯めたいから」だ。
自分勝手で、自分の欲に忠実な理由だと思われるかもしれないけど、これはどんな理屈より強いんだ。
人からの評価でも揺るがないし、他人から見られている・いないに関係なく行動を起こせる。
強いていうなら「お天道さま」の顔色を伺っている。いつでも空からぼくを見られていて、手にもっている査定表にぼくの評価を書き続けている。
正しい行いをすれば評価が上がり、それに見合った給料を「運」という形でぼくに支払ってくれる。逆に、信頼に答えないような行いは減給扱いで、ぼくの運を減らしてしまう。
「運」というのは得体の知れないものではあるが、しかしだからこそ、ぼくがぼく自身を納得させられる大きな力になっているのだ。
この理屈は、きっとまだ子供には理解できないだろうから、まだ娘には話をできないでいる。大きくなったら教えようとは思うよ。