辛い思い出だけでも無くしたい、と。とても唐突な話だね。
ふむ。そうか、あの娘と別れたんだね。それはさぞかしツラいだろうよ。けれど、かと言ってそのツラい思い出を無くしてしまってはいけないよ。
仮に私が、あの悪魔のように記憶を入れる麻袋を持ってたとしても、オススメできるものじゃあない。
後悔や失敗ってのは、未来へ活かすためのものだ。人が未来を見られず、思い出という過去を見られるようになっているのは、過去を使って未来を変えるためだからだよ。
納得できないって顔だね。
分かったよ。私は魔法の麻袋を持ってはいないが、物語を語ることはできる。
昔、君のように失恋に打ちひしがれた青年がいたよ。彼も君と同じように、絶望の淵にいたんだ。そして、悪魔と手を交わしてしまったのさ。
記憶を入れる麻袋
その街には、端正な顔立ちの青年がいた。彼には、街一番の美女であり、幼馴染である彼女がいた。
街ではお似合いのカップルだともてはやされていたが、幸せの裏には不幸があるもの。その二人をよく思わない人間もいた。
街一番の彼女と結ばれたいと願う一人の男が、彼らの仲を引き裂こうと策略をしていた。
そしてその男は、色目を使うことにした。彼の目の前に、他の街から連れてきた女を紹介し、わざと仲睦まじく接するように仕向けた。
その現場を見つけた青年の彼女は、その青年に別れを告げ、そして静かに街を去ってしまった。
青年は後悔した。自分の過ちによって、自分は最愛の人を手放してしまった。その失敗を悔み、忘れたいと願った。
彼はベッドに倒れ込み、自分の過ちと辛い現実に涙を流し、気がつけばスヤスヤと眠ってしまっていた。
悪魔は早耳。そして早技。
小さな羽根をたなびかせ、見にくい顔に尖った耳を持った悪魔が、不幸を背負ったその青年の前に現れた。
そして、取引を持ちかけた。
『よお!そんなに辛いなら、お前に良い物をやるよ。』
取りだしたのは、普通の麻袋だった。
『見た目は普通の麻袋だ。けれど、悪魔の持ち物ってのは何かしら不思議な力があるってのが相場だ。
この麻袋は、記憶を入れて置けんだ。自分の好きな記憶をこの麻袋に詰めて、紐で縛っちまえば良い。そうすりゃお前のその辛い過去ってやつともオサラバよ。
お前の寿命を5年よこしな。そうすりゃコイツをくれてやる。』
青年は、自分の辛い過去を受け止めきれず、悪魔に寿命を差し出した。そしてその麻袋の中に、今まで自分が経験したすべての辛い過去をいれた。
彼は、自分の肩が軽くなったことに喜んだ。
『ありがとよ!その袋はお前のもんだ。好きに使いな。それじゃ・・・』
「待ってくれ!」
青年は、悪魔に取引を持ちかけた。
「このままじゃ結局、僕は彼女と一緒になることができない。それじゃ意味がないんだ。だから、時間を戻すことはできないか?」
『おっと、そいつは別料金が必要になるぜ。寿命を、もう5年よこしな。そしたら、5日戻してやる』
目を覚ました彼の手には、ひとつの麻袋があった。そして、カレンダーを見たら、悪魔と取引をしたあの日の5日前であった。
彼は喜び、はしゃいだ。ベッドの上を飛び跳ね、今日が彼女とのデートの日だというのを思い出し、家を飛び出した。
そして彼は、その5日後に同じ過ちをしてしまう。麻袋に入れた辛い思い出と共に、自分の失敗を省みることが彼にはできなかった。
彼はまた失恋に涙し、悔しい心を胸にベッドへと倒れこんだ。
夢の中で、またもあの悪魔が現れた。
『どうした、旦那。辛い顔してんじゃねぇか。何ならお前を、過去に戻してやることだってできるんだぜ?』
青年は、自分の手にしている麻袋にふと目を落とした。
「・・・そうか。僕は自分の失敗を、辛い過去と一緒にこの袋に入れてあるんだ。次は同じ失敗をしないで済むぞ・・・」
「いいだろう!悪魔よ!寿命を5年やるから、俺を5日前に戻してくれ!」
『聞き分けのいい男は嫌いじゃないぜ』
こうして青年は、またも悪魔と手を交わした。
目を覚ました彼の手には、前と同じく麻袋が握られていた。
そして彼は、自分が失った未来の記憶を取り出そうとした。彼女と別れた原因を。自分の未来の失敗を見ようとした。
彼は、その握られた麻袋を縛っている紐を手に取り、少しずつ解いていく。そして、中に手を入れ、自分の過去の記憶のひとつを手に取った。
その記憶を、自分の頭にかざす。すると、彼の頭の中には、今まで自分が経験した苦い過去が広がった。思い出したくもない辛い過去が、頭の中を駆け巡る。
彼はその記憶を頭から突き放し、麻袋の中に投げ入れた。
「くそ。もう一度。」
彼はまた袋に手を伸ばし、自分の記憶を頭に押し当てた。するとまたも、辛い記憶が蘇る。
何度か試してみるものの、彼女と別れた原因には辿りつけない。それ以外の辛い過去ばかりを見せられてしまう。
彼は我慢できず、勢いよく紐をとき、中身の記憶を一面にぶちまけた。すると、今までの辛い記憶が辺りに広がった。
彼は、自分の辛い過去を省みる勇気がなく、その場を逃げ出してしまった。そして、一度手放した辛い過去は、もう二度と彼の元に戻ることはなかった。
そして彼は、何度も同じ過ちを繰り返した。5日後にはまた悪魔と取引し、過去に戻される。
悪魔と10回目の取引をした、その日の朝。彼にはもう、目覚めるだけの余命が残されてはいなかった。
あとがき
それでも過去の辛い記憶を忘れたいというなら、記憶じゃなく、記録としてしまうことさ。
紙に書くでも良い。Evernoteに入れるでも良い。なんでも良いさ。
自分の頭の中で収まり切らないなら、頭の外に出してしまうこと。
そして大切なのは、取り出したい時に、取り出せる仕組みを作っておくことだね。これを達成するなら、Evernoteややっぱり便利だと思うよ。
決して、麻袋に詰め込んで、口を縛ってはいけないよ。